うんちくの話 稲美町の話 昔話

こんにちは。

すえひろ電器のメガネの従業員、中嶋です。

今回は郷土の話です。

父方が稲美町出身で、昔から父が言う「五軒屋」だ「七軒屋」といった地名が不思議でした。ほかにも溜め池が多かったり、寺がすくなかったり、なんでだろうと思っていました。

探してみると、稲美町(村)の成り立ち自体を考察している方の話が面白かったのでまとめてみます。

詳しくは兵庫県加古郡稲美町探訪 (inami.or.jp)を読むと興味深いことがたくさん書かれています。

まず稲美の地には大きな川がないので耕作地としては適さず、大きな集落が自然には育ちませんでした。

江戸に入ってようやく、開拓が計画されます。発案者は西条の人物で、稲美の地に耕作地を作るべく藩に掛け合います。

開拓を計画的に進めるため入植者を募り、順番に入植させていきました。その地に何軒まとめて入ったか、というのが地名に残りました。「三軒屋」という地名もこの時についたものと思われます。

そうして少しづつ開拓していき、ついに加古新村として認められました。村人には旗振り役と同じ西条から来たものが多く、村で耕作する代わりに、西条の地にある寺院の檀家になるという決め事がありました。そのため、加古新村のあった地域には寺院がたてられることはありませんでした。今に至るまで寺院の数がそう多くないことは、ここに一因があります。

また、大きな川がなかったことから溜め池が多く作られていたというのも、江戸期というタイミングが良かったかもしれません。

戦国期に土木技術が発展し、江戸に入って戦が減ったことでそれらの技術者の活躍の場が溜め池事業や新田開発に大いに発揮されたことは想像できます。川の少ない地域ですが、こうした技術の後押しでようやく耕作を可能にし、いまの肥沃な稲美町へと姿を変えていきました。

昔から知っているつもりの土地ですが、こうした歴史を知ってから見るとまた違った景色が見られるのではないでしょうか。地名一つ、どうした由来があるのかなと考えて想像を膨らませるだけでも楽しめると思います。

秋の夜長に、実際に行かなくとも地図上で眺めるというのもいいかもしれませんね。